とよとみ ひでよし
太閤・関白/羽柴秀吉・木下藤吉郎・日吉丸
家紋 五七桐(太閤桐)
天文6年(1537)、尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれる。足軽・農民の出と伝わり、針売りなどを経て織田信長に小者として仕えた。墨俣一夜城・金ヶ崎の退き口・中国攻めで頭角を現し、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起こると「中国大返し」で京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀を討つ。賤ヶ岳・小牧長久手を経て信長の後継者の地位を固め、天正13年(1585)に関白、翌年に豊臣姓を賜る。四国・九州・小田原を平定し、天正18年(1590)に天下統一を成し遂げた。
天下統一後、大陸侵攻(唐入り)を企図し、その前線基地として天正19年(1591)に肥前名護屋への築城を九州の諸大名へ命じた。わずか5か月で大坂城に次ぐ規模の巨城が完成し、周囲には全国から集まった大名の陣屋が130以上立ち並び、人口20万を超える城下町が出現した。文禄元年(1592)、秀吉は名護屋城本丸に入り、約16万の渡海軍を朝鮮へ送り出す総大将として全軍を指揮した(文禄の役)。自らは海を渡らず本丸御殿で采配を振るい、能や茶会で諸将をもてなし、山里丸には居館・茶室を設けた。
文禄2年(1593)に明との講和交渉が始まり戦線は一旦縮小したが、交渉決裂後の慶長2年(1597)に再出兵(慶長の役)。戦況が膠着するなか、慶長3年8月18日(1598)、秀吉は伏見城で病没した(享年62)。遺言により朝鮮からの撤兵が決まり、名護屋城も役目を終えて廃城となった。豊臣政権はやがて徳川家康に実権を奪われ、子の秀頼は慶長20年(1615)大坂夏の陣で自刃、豊臣宗家は滅亡した。
桶狭間(信長配下)・墨俣一夜城・金ヶ崎の退き口・中国攻め(備中高松城水攻め)・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・四国征伐・九州征伐・小田原征伐・文禄慶長の役
実子に鶴松(夭折)・秀頼。養子に秀次、小早川秀秋ら。子飼いの家臣に石田三成・加藤清正・福島正則・大谷吉継・浅野長政、軍師に黒田官兵衛・竹中半兵衛。秀頼の死で豊臣宗家は断絶した。
主君・織田信長の勢力を継承。徳川家康とは小牧長久手の後に和睦し臣従させた。盟友・前田利家とは終生昵懇。毛利・上杉・島津ら有力大名を従え、五大老・五奉行制を敷いた。
豊臣宗家は大坂の陣で滅んだが、明治期に再評価が進み、明治13年(1880)に正一位を追贈。京都東山に豊国神社が再興され、大阪・名古屋など各地の豊国神社に祀られている。
京都・豊国神社(豊国廟)、大阪城(再建天守)、生誕地の名古屋市中村公園(豊國神社・銅像)、佐賀県立名護屋城博物館と名護屋城跡(特別史跡)の本丸・天守台・山里丸跡。NHK大河ドラマ等でも度々主役として描かれる。
文禄・慶長の役の総大将。天正19年(1591)に名護屋城を築き、全国の大名を当地に集結させた天下人。本丸跡・天守台・山里丸跡が国の特別史跡として残る。
緯度 33.5306157 / 経度 129.8692295 ・Googleマップで開く
名護屋城陣あとプロジェクト
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