名護屋城陣あとプロジェクト

豊臣秀吉の肖像

豊臣秀吉

とよとみ ひでよし

太閤・関白/羽柴秀吉・木下藤吉郎・日吉丸
豊臣秀吉の家紋「五七桐(太閤桐)」 家紋 五七桐(太閤桐)
城地
名護屋城本丸(御殿・天守)
都道府県
大阪府(摂津)
石高
豊臣家蔵入地 約220万石(天下人)
軍役数
渡海軍 約158,000人(文禄の役・総大将)
所属藩
豊臣宗家(大坂の陣で断絶)
名護屋出兵時の年齢
56歳(1592年・名護屋在陣時)
出生年
1537年(天文6年)
没年
1598年(慶長3年)
大名の居城
大坂城(ほか聚楽第・伏見城)
出陣・在陣
名護屋城本丸に在陣(自らは渡海せず全軍を総指揮)

武将のステータス

性格
陽気で人たらし。派手好きで気前がよい一方、晩年は猜疑心を強めたとされる。
特技
人心掌握・調略・築城(墨俣/石垣山の一夜城)・茶の湯

武将のストーリー

生まれ・故郷・活躍

天文6年(1537)、尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれる。足軽・農民の出と伝わり、針売りなどを経て織田信長に小者として仕えた。墨俣一夜城・金ヶ崎の退き口・中国攻めで頭角を現し、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起こると「中国大返し」で京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀を討つ。賤ヶ岳・小牧長久手を経て信長の後継者の地位を固め、天正13年(1585)に関白、翌年に豊臣姓を賜る。四国・九州・小田原を平定し、天正18年(1590)に天下統一を成し遂げた。

秀吉の時代 ─ 名護屋城

天下統一後、大陸侵攻(唐入り)を企図し、その前線基地として天正19年(1591)に肥前名護屋への築城を九州の諸大名へ命じた。わずか5か月で大坂城に次ぐ規模の巨城が完成し、周囲には全国から集まった大名の陣屋が130以上立ち並び、人口20万を超える城下町が出現した。文禄元年(1592)、秀吉は名護屋城本丸に入り、約16万の渡海軍を朝鮮へ送り出す総大将として全軍を指揮した(文禄の役)。自らは海を渡らず本丸御殿で采配を振るい、能や茶会で諸将をもてなし、山里丸には居館・茶室を設けた。

その後のエピソード

文禄2年(1593)に明との講和交渉が始まり戦線は一旦縮小したが、交渉決裂後の慶長2年(1597)に再出兵(慶長の役)。戦況が膠着するなか、慶長3年8月18日(1598)、秀吉は伏見城で病没した(享年62)。遺言により朝鮮からの撤兵が決まり、名護屋城も役目を終えて廃城となった。豊臣政権はやがて徳川家康に実権を奪われ、子の秀頼は慶長20年(1615)大坂夏の陣で自刃、豊臣宗家は滅亡した。

主な戦いの戦績

桶狭間(信長配下)・墨俣一夜城・金ヶ崎の退き口・中国攻め(備中高松城水攻め)・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・四国征伐・九州征伐・小田原征伐・文禄慶長の役

子孫と家臣

実子に鶴松(夭折)・秀頼。養子に秀次、小早川秀秋ら。子飼いの家臣に石田三成・加藤清正・福島正則・大谷吉継・浅野長政、軍師に黒田官兵衛・竹中半兵衛。秀頼の死で豊臣宗家は断絶した。

同盟状況

主君・織田信長の勢力を継承。徳川家康とは小牧長久手の後に和睦し臣従させた。盟友・前田利家とは終生昵懇。毛利・上杉・島津ら有力大名を従え、五大老・五奉行制を敷いた。

明治維新後の歴史

豊臣宗家は大坂の陣で滅んだが、明治期に再評価が進み、明治13年(1880)に正一位を追贈。京都東山に豊国神社が再興され、大阪・名古屋など各地の豊国神社に祀られている。

現代に残る面影

京都・豊国神社(豊国廟)、大阪城(再建天守)、生誕地の名古屋市中村公園(豊國神社・銅像)、佐賀県立名護屋城博物館と名護屋城跡(特別史跡)の本丸・天守台・山里丸跡。NHK大河ドラマ等でも度々主役として描かれる。

備考

文禄・慶長の役の総大将。天正19年(1591)に名護屋城を築き、全国の大名を当地に集結させた天下人。本丸跡・天守台・山里丸跡が国の特別史跡として残る。

陣あとの位置

緯度 33.5306157 / 経度 129.8692295 ・Googleマップで開く

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