城地
板島(宇和島)
とうどう たかとら
佐渡守・「築城の三名手」の一人いざ、出陣!武将たちが密書を携え、そなたを待っておる。
― 新たな密書が届いた ―
ふむ、城づくりか。次は肥前の梟雄・鍋島加賀守直茂殿のもとへ。「名護屋の普請、貴殿の采配あってこそ。次なる城も助言を請いたい」とな。あの御仁、龍造寺を継ぎし肥前の実力者よ。
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高虎・直茂はともに築城・普請に長けた実務派。直茂は龍造寺家の実権を握り肥前を治めた。名護屋城普請での縁。(一部創作)
近江藤堂村に生まれる。浅井長政・阿閉貞征・織田信澄など主君を七度変えながら、最後に豊臣秀長に仕えて頭角を現した。
秀長の死後は豊臣秀保に仕え、文禄の役では水軍を率いて朝鮮に渡海。慶長の役でも各地を転戦し、巨済島の海戦などで活躍した。
関ヶ原で東軍に与し伊予今治20万石、後に伊勢津32万石。徳川家康の信任厚く、外様ながら譜代並みの扱いを受けた。今治城・宇和島城・伊賀上野城・津城・篠山城・江戸城・大坂城の縄張りなどを手がけた。
文禄慶長の役(水軍)・関ヶ原(東軍)・大坂の陣
津藩藤堂家として明治まで存続
豊臣秀長・徳川家康
藤堂家は明治に伯爵
今治城・宇和島城・伊賀上野城・津城(いずれも現存または再建)・津藩藤堂家ゆかりの寒松院
築城の名手。後に名護屋城の解体・唐津城の築城にも関与した。陣跡は名護屋本陣の南方と、別陣が呼子・殿ノ浦にも残る。
緯度 33.5233225 / 経度 129.8724509 ・Googleマップで開く
名護屋城陣あとプロジェクト